2020年9月、経済産業省は日本企業が持続的に成長するために必要な人的資本経営の指針を示した「人材版伊藤レポート」を取りまとめました。
このレポートをきっかけに、従業員の能力やスキルを経営資源と見なし、適切な投資と運用によって企業価値を高める「人的資本経営」という考え方が広く知られるようになりました。
本記事では、2014年の伊藤レポートから人材版、2.0、3.0へと続く流れを整理したうえで、3つの視点と5つの共通要素、2023年から義務化された情報開示の中身、そして企業の取り組み例までをまとめて解説します。

人材版伊藤レポートの全体像

人材版伊藤レポートの中身に入る前に、それがどんな流れのなかで生まれたのかを押さえておきましょう。実は「伊藤レポート」と名のつく報告書はひとつではなく、人的資本経営を考えるうえでは、その全体像を知っておくと理解がぐっと進みます。
伊藤レポート(2014年)から人材版伊藤レポートに至る系譜
「伊藤レポート」と一口にいっても、実際には複数の報告書が時期を変えて公表されてきました。出発点は2014年8月、一橋大学大学院教授(当時)の伊藤邦雄氏が座長を務めたプロジェクト「持続的成長への競争力とインセンティブ―企業と投資家の望ましい関係構築―」の最終報告書です。ここでは投資家との対話を通じてROEを高め、企業価値を向上させる道筋が示されました。
その問題意識を人材へと広げたものが、2020年9月公表の「人材版伊藤レポート」です。さらに2022年には、実践編にあたる2.0と、サステナビリティに軸足を置いた3.0が相次いで公表され、人的資本をめぐる議論の土台が固まっていきました。各レポートの位置づけを時系列で押さえておくと、どれを参照すべきかが判断しやすくなるでしょう。
| 公表時期 | 名称 | 位置づけ |
| 2014年8月 | 伊藤レポート | 企業と投資家の対話、ROE経営を提言 |
| 2020年9月 | 人材版伊藤レポート | 人的資本経営の3つの視点と5つの共通要素を提示 |
| 2022年5月 | 人材版伊藤レポート2.0 | 人的資本経営の実践アイデアと企業事例を追加 |
| 2022年8月 | 伊藤レポート3.0(SX版) | サステナビリティ経営(SX)への変革を提言 |
出典:経済産業省「人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書(人材版伊藤レポート2.0)」https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/index.html
定義されている内容
「人材版伊藤レポート」は、伊藤邦雄氏が座長を務めた経済産業省のプロジェクト「持続的な企業価値向上と人的資本に関する研究会」が、企業の人材戦略の現状と理想像を比較しながらまとめた報告書です。
このレポートは、人材戦略に求められる3つの視点と5つの共通要素に言及しており、両者をあわせて3P・5Fモデルとして整理しています。次の項目で、それぞれの中身を見ていきます。

3つの視点
3つの視点は、人材戦略を経営に結びつけるための着眼点です。経営と人材を別々に考えず、ひとつながりのものとしてとらえ直すための枠組みといえます。
①経営戦略と人材戦略の連動:事業の方向性と、人材の採用・育成・配置を一体で考える視点です。
②As is To beギャップの定量把握:現状(As is)と目指す姿(To be)の差を数値でとらえ、打ち手の優先順位を判断します。
③人材戦略の実行プロセスを通じた企業文化への定着:施策を一過性で終わらせず、日々の行動として根づかせていきます。
5つの共通要素
5つの共通要素は、3つの視点を実行に移すときに共通して意識したい論点です。業種や規模を問わず、人的資本経営の土台になる要素として挙げられています。
①動的な人材ポートフォリオ:成長戦略に合わせて、必要な人材のタイプや配置を柔軟に見直します。
②知・経験のダイバーシティ&インクルージョン:多様な専門性や価値観を受け入れ、新しい発想につなげます。
③リスキル・学び直し:事業環境の変化に合わせて、社員が新たなスキルを習得できる機会を用意します。
④従業員エンゲージメント:社員がやりがいを感じ、主体的に働ける状態を目指します。
⑤時間や場所にとらわれない働き方:リモートワークなどを取り入れ、個々の事情に合った働き方を整えます
人材版伊藤レポート2.0が作成された社会的背景
社会情勢の変化
「人材版伊藤レポート2.0」は2022年5月に「人的資本経営の実現に向けた検討会」が取りまとめた報告書で、初版の改訂版にあたります。改訂に至った背景には、経営環境そのものが急速に変わったことがあります。
デジタル技術の高度化や脱炭素への対応が進み、働く人の価値観も多様になりました。こうした変化のなかで経営戦略と人材戦略を噛み合わせる難度が上がり、人的資本の課題が経営の中心に位置づけられるようになったのです。そこで2.0では、初版の考え方をさらに掘り下げ、人的資本経営をどう具体化し実行に移すかへ重点を置いています。
世界的な人的資本情報開示の流れ(ISO30414)
また2010年代後半、人的資本を「企業価値創造の源泉」として捉え、その情報開示を進める動きが世界的に高まりました。 このような流れの中、2018年には国際標準化機構(ISO)によって「人的資本報告ガイドライン(ISO30414)」が発行されました。ISO30414は、組織における人的資本の価値を測定・報告するための共通の枠組みを提供し、財務情報と同様に、人的資本に関する情報開示の標準化を目指しています。
このISO30414の発行は、人的資本情報開示の重要性を国際的に認知させ、各国における独自の取り組みを促進するきっかけとなりました。
日本においても、ISO30414を参考に、日本企業の状況に合わせた枠組みとして人材版伊藤レポートが策定され、改訂を重ねながら活用されています。
このように、人材版伊藤レポートは、ISO30414を背景とした国際的な潮流と、日本企業特有の状況を踏まえて作成された、日本独自のガイドラインと言えるでしょう。
ISO30414とは?その内容と準拠するための情報開示手順をご紹介
人的資本と人的資本経営の基本

人的資本経営の話には、「人的資本」と「人的資本経営」という言葉がセットで登場します。似ているようで指すものが違うため、ここで一度かみくだいて整理しておきましょう。まずは土台となる「人的資本」から見ていきます。
人的資本とは
人的資本という言葉は、従業員が持つスキルや知識、経験、ノウハウを「資本」として扱う発想を指します。ヒト・モノ・カネという経営資源のうち、グローバル化やサービス産業の拡大を背景に、差別化や提供価値の源泉として「ヒト」の比重が高まってきました。
アメリカでは2020年8月から上場企業に人的資本の情報開示が課されており、将来の成長性や収益力を見極める材料として投資家の関心を集めています。
人的資本経営とは
人的資本経営は、人材を「資本」とみなして投資し、その価値を引き出しながら中長期の企業価値向上につなげる経営のやり方です。従来の財務資料では、人材にかかる支出は「人件費」という費用として扱われてきました。
人的資本経営では、同じ支出を将来の価値を生む投資としてとらえ直します。経営戦略と連動させながら人への投資を積み重ね、新たな価値創造へつなげていく考え方といえます。
人的資本経営が求められている背景

ここでは近年の企業経営において人的資本の考え方が求められている背景を解説します。
人材や働き方の多様化
少子高齢化により労働人口が減少する中で、外国人労働者やシニア世代・子育て世代など、多様な人材が一つの会社で働くようになりました。
このような多様な属性の人たちをマネジメントするには、従来の雇用形態や社会的慣習を見直し、1人ひとりの実情に合わせた新たな働き方を提示する必要があります。
そこで、それぞれに適した働き方を整備することでより多くの人材に活躍してもらう人的資本経営の考え方が必要とされはじめています。
持続可能な社会への取り組みが重視されている
近年「ESG投資」や「SDGs」など、企業が持続可能な社会づくりに向けて取り組んでいるかどうかに注目が集まっていることも、人的資本経営が注目される背景の一つです。
ESG投資とは、投資家がEnvironment(環境)、Social(社会)、Governance(企業統治)の3つの観点から企業の持続可能性を評価し、投資するかどうかを決める方法のこと。
この3つの観点は、従来の財務情報には反映されない指標ですが、企業の長期的成長を見極めるために重要な項目として投資家を中心に開示要求が強まっています。
SDGsは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称で、SDGsの8つ目の目標では「働きがいも、持続的な経済成長も」が定義されており、ダイバーシティや人材育成などの推進も定義されています。
働き盛りの若い世代を中心に持続可能な社会に関心をよせている層が増えており、そのような人々に対して人的資本経営に取り組んでいることをアピールすることで、採用面でも有利に働きやすくなります。
デジタル課題の進化
デジタル化が急速に進む中で、人材に求められるデジタルスキルのレベルは以前よりも上がっています。
そのため、今いる人材に教育投資を行い、現在のビジネス環境にマッチしたスキルを伸ばすことで企業競争力の向上につなげていく必要があります。
このように人材に積極的な投資を実施する際の考え方として、人的資本経営が注目されています。
人材版伊藤レポート2.0の抑えておくべきポイント
「人材版伊藤レポート2.0」では、前版で紹介した「3つの視点」と「5つの共通要素」をまとめ、抑えるべき8つの重要ポイントについて、実践的な取り組み方法を紹介しています。
1:経営戦略と人材戦略を連動させるための取り組み
2:「As is – To be ギャップ」の定量把握のための取り組み
3:企業文化への定着のための取り組み
4:動的な人材ポートフォリオ計画の策定と運用
5:知・経験のダイバーシティ&インクルージョンのための取り組み
6:リスキル・学び直しのための取り組み
7:社員エンゲージメントを高めるための取り組み
8:時間や場所にとらわれない働き方を進めるための取り組み
このように、人材版伊藤レポート2.0は人的資本経営の重要性を説いており、人的資本経営という変革の実践を通して企業価値を向上させるよう日本企業に対して提言しています。
人材版伊藤レポートを基に企業が行うべきこと

ここでは人材版伊藤レポート2.0に掲載されている内容をもとに、企業が人的資本経営のためにどんな取り組みを行うべきかをピックアップして解説します。
経営戦略と人材戦略の連動に向けた取り組み
急速に変化が起こる経営環境の中で持続的に企業価値を高めるためには、経営戦略と連動する形で人材戦略を策定し、速やかに実行することが欠かせません。
そのような経営戦略と人材戦略を連動させるための取り組みとして、人材版伊藤レポート2.0では下記を行うよう提唱しています。
・CHRO(最高人事責任者)の設置
・全社的経営課題の抽出
・KPIの設定、背景・理由の説明
・人事と事業の両部門における役割分担の検証と人事部門の能力向上
As is/To beギャップの定量把握のための取り組み
人的資本における「As is/To beギャップ」は短期間では解消できないことも多いです。
そのため、CHROはKPI達成までの期間を設定し、ギャップを埋めるための継続的な取り組みが求められます。
またAs is/To beギャップを定量把握するための具体的な取り組みとして下記を挙げています。
・人事情報基盤の整理
・動的な人材ポートフォリオ計画を踏まえた目標や達成までの期間の設定
・定量把握する項目の一覧化
企業文化への定着に向けた取り組み
人材版伊藤レポート2.0では、持続的な企業価値向上につながる企業文化醸成の必要性を強く提唱しています。
企業として重視する行動や姿勢が社員に浸透するよう、社員の任用・昇格・報酬・表彰等の仕組みを検討すると良いでしょう。
また具体的な取り組みとして下記を挙げています。
・企業理念・企業の存在意義・企業文化の定義
・社員の具体的な行動や姿勢への紐付け
・CEO・CHROと社員の対話の場の設定
人的資本の情報開示
2022年8月、内閣府は企業の人的資本の開示に関する指針を正式に公表しました。
これによると、企業は資本市場や労働市場のステークホルダーが納得するストーリーを、人的資本の定量的なデータを基に説明できるよう準備する必要があります。
また開示が望ましい項目として、以下の7分野19項目を示しています。

人的資本の情報開示への対応
人的資本の情報開示は、いまや一部の上場企業にとって任意の取り組みではなくなりました。2023年1月に「企業内容等の開示に関する内閣府令」が改正され、2023年3月31日以後に終了する事業年度の有価証券報告書から、人的資本に関する開示が求められています。対象は有価証券報告書を提出する大手上場企業、およそ4,000社です。
開示の場所は主に「サステナビリティに関する考え方及び取組」と「従業員の状況」の2か所です。なかでも女性管理職比率・男性育児休業取得率・男女間賃金差異の3指標は記載が必須とされています。投資家を含むステークホルダーが納得できるよう、定量データに基づいて自社のストーリーを語れる準備が要るといえます。
出典:金融庁「企業内容等の開示に関する内閣府令」の改正(2023年1月施行)
開示が望ましい7分野19項目
義務化された項目以外に何を開示するかを考えるとき、手がかりになるのが内閣官房の非財務情報可視化研究会がまとめた「人的資本可視化指針」(2022年8月)です。ここでは、開示が望ましい項目として7つの分野と19の項目が整理されています。
すべてを開示する義務はありませんが、自社の経営戦略や人材戦略に照らして、語るべき指標を選ぶ際の見取り図になります。具体的には次の7分野です。
- 育成:リーダーシップ、育成、スキル/経験
- エンゲージメント:エンゲージメント
- 流動性:採用、維持、サクセッション
- ダイバーシティ:ダイバーシティ、非差別、育児休業
- 健康・安全:精神的健康、身体的健康、安全
- 労働慣行:労働慣行、児童労働/強制労働、賃金の公正性、福利厚生、組合との関係
- コンプライアンス/倫理:コンプライアンス/倫理
出典:内閣官房 非財務情報可視化研究会「人的資本可視化指針」(2022年8月)
7分野のうち「エンゲージメント」は、5つの共通要素にも挙げられた、現場の状態が表れやすい指標です。従業員サーベイで定点的に可視化しておくと、開示に使える数値と、職場改善の手がかりを同時に得やすくなります。
伊藤レポート3.0(SX版)と人的資本経営の関係
人的資本経営を理解するうえで、2022年8月に公表された伊藤レポート3.0(SX版)の位置づけも押さえておきたいところです。人材版や2.0とどう違うのかを整理しておくと、各レポートの使い分けがはっきりします。
伊藤レポート3.0が示すサステナビリティ経営
伊藤レポート3.0は、経済産業省の「SX研究会」での議論をもとにまとめられた報告書です。中心に置かれているのは、企業が持続可能性を確保しながら経営や事業を変革していくSX(サステナビリティ・トランスフォーメーション)という考え方になります。
環境や社会の課題を成長の機会としてとらえ直し、投資家との建設的な対話を通じて、これまでの延長線にない変革を進めることを促しています。人的資本経営は、このSXを支える要素のひとつとして位置づけられているのです。
2.0と3.0の違い
2.0と3.0は、扱うテーマと目的が異なります。2.0は人材戦略を起点に、人への投資で企業の稼ぐ力を高めることに重きを置いた実践編です。一方の3.0は、人的資本を含む経営全体をサステナビリティの観点から見直し、社会と企業の持続的な成長を同時に実現することを狙っています。
どちらかが新しい・古いという関係ではありません。人材という切り口を深めたのが2.0、経営全体へ視野を広げたのが3.0だと整理すると分かりやすいでしょう。両者の主な違いは次のとおりです。
| 項目 | 人材版伊藤レポート2.0 | 伊藤レポート3.0(SX版) |
| 公表時期 | 2022年5月 | 2022年8月 |
| 主なテーマ | 人的資本経営の実践 | サステナビリティ経営(SX)への変革 |
| 力点 | 人への投資による企業価値向上 | 社会と企業の持続的成長の同期 |
人材版伊藤レポートを活用した企業例

ここでは人材版伊藤レポートの活用事例を解説します。
KDDI株式会社(電気通信事業)
KDDI株式会社では中期経営戦略で経営基盤強化の一つとして「KDDI版ジョブ型人事制度」を導入し、人的資本経営のためのさまざまな施策を行っています。
2020年から「KDDI新働き方宣言」を策定し、時間や場所に捉われない新しい働き方を推進しているほか、事業部門で20年以上の経験を持つ人材を人事部門トップへ登用、経営層や各事業部門と人事部門の対話を通じて経営戦略と人事戦略の連動を図っています。
また同社では今後部門ごとの人財ポートフォリオを策定し、今後の事業展開に応じて人材の採用・育成・配置の検討を行うとともに、全社員のポータブルスキルに関する情報開示を実施する予定です。
双日株式会社(卸売小売業)
双日株式会社では、人的資本経営を実現するための人材戦略を支える3本柱に「多様性を活かす」「挑戦を促す」「成長を実感できる」を掲げ、それぞれの柱に対しKPIを設定しています。
「多様性を活かす」のKPIとして2030年代に女性社員比率50%程度という数値を設定、達成するために海外トレーニー制度やMBAプログラムへの派遣制度など、キャリア意識を醸成する取り組みを行なっているようです。
また「挑戦」「成長実感」に関してもKPIを設け、社員意識調査によるアンケートを実施し、現状の定量把握や施策検討に活かしています。
まとめ
人材版伊藤レポートは、多様な人材が力を発揮する現代の経営に必要な論点を、3つの視点と5つの共通要素として整理した報告書です。2.0で実践のヒントが、3.0でサステナビリティへの広がりが加わり、2023年には情報開示の義務化も始まりました。
これらの指標は、中長期の成長や企業価値の向上を目指すうえで避けて通れないものになっています。自社の人材戦略を見直す際は、まずレポートに目を通し、現状を数値で把握するところから始めてみてはいかがでしょうか。
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