2020年9月、経済産業省は日本企業が持続的に成長するために必要な人的資本経営の指針を示した「伊藤レポート」を取りまとめました。
この伊藤レポートをきっかけに、従業員の能力やスキルなどを経営資源と見なし、適切な投資と運用を行うことで企業価値を向上させる「人的資本経営」の考え方が注目されるようになりました。
そこで本記事では同レポートの概要や公表の背景、レポート内で提唱されている企業のアクションを解説します。
目次
人材版伊藤レポートについて
2020年9月、経済産業省は日本企業を持続的に成長させるために必要な人的資本経営の視点をまとめたレポート「人材版伊藤レポート」を公開、人的資本経営が注目を浴びるきっかけとなりました。
さらに、2022年5月には人的資本経営実践のポイントを深掘りした新たな伊藤レポート「人材版伊藤レポート2.0」を公開しています。
ここでは同レポートの概要を解説します。
定義されている内容
「伊藤レポート」は、伊藤邦雄氏が座長を務める経済産業省内に設置されたプロジェクト「持続的成長への競争力とインセンティブ―企業と投資家の望ましい関係構築―」の最終報告書の通称です。
日本企業が投資家との対話を通じて収益力と企業価値を高める指標を示した報告書として、2014年8月に公表されました。
そして「人材版伊藤レポート」は、同じく伊藤邦雄氏が座長を務めた経済産業省内のプロジェクト「持続的な企業価値向上と人的資本に関する研究会」にて、企業経営における人材戦略の現状と理想像を比較・議論を重ねながらまとめられた報告書です。
人材版伊藤レポートは、人材戦略に求められる以下の3つの視点と、5つの共通要素に言及しており、これらの視点と共通要素は3P・5Fモデルとして整理されています。
3つの視点
①経営戦略と人材戦略の連動
②As is‐To beギャップの定量把握
③人材戦略の実行プロセスを通じた企業文化への定着
5つの共通要素
①動的な人材ポートフォリオ、個人・組織の活性化
②知・経験のダイバーシティ&インクルージョン
③リスキル・学び直し
④従業員エンゲージメント
⑤時間や場所にとらわれない働き方
人材版伊藤レポート2.0が作成された社会的背景
社会情勢の変化
「人材版伊藤レポート2.0」は2022年5月に発表された「人的資本経営の実現に向けた検討会」(経済産業省)が取りまとめた報告書で、「人材版伊藤レポート」の改定版といえます。
改訂版である2.0が作成された背景には、デジタル化や脱炭素化、コロナ禍を経て起こった人々における意識の変化があります。
これらの変化により、経営戦略と人材戦略の連動がますます難しくなる中、人的資本に関する課題解決が経営面でさらに重要な位置づけとなりました。
そこで「人材版伊藤レポート2.0」では前版の内容をさらに深堀り、人的資本経営をどう具体化し、実践に移していくかを主眼に置いて有用なアイデアを提示しています。
世界的な人的資本情報開示の流れ(ISO30414)
また2010年代後半、人的資本を「企業価値創造の源泉」として捉え、その情報開示を進める動きが世界的に高まりました。 このような流れの中、2018年には国際標準化機構(ISO)によって「人的資本報告ガイドライン(ISO30414)」が発行されました。ISO30414は、組織における人的資本の価値を測定・報告するための共通の枠組みを提供し、財務情報と同様に、人的資本に関する情報開示の標準化を目指しています。
このISO30414の発行は、人的資本情報開示の重要性を国際的に認知させ、各国における独自の取り組みを促進するきっかけとなりました。
日本においても、ISO30414を参考に、日本企業の状況に合わせた枠組みとして人材版伊藤レポートが策定され、改訂を重ねながら活用されています。
このように、人材版伊藤レポートは、ISO30414を背景とした国際的な潮流と、日本企業特有の状況を踏まえて作成された、日本独自のガイドラインと言えるでしょう。
ISO30414とは?その内容と準拠するための情報開示手順をご紹介
人的資本とは
人的資本とは、従業員(人材)が持つスキル・知識・ノウハウ・資源などを資本として捉える考え方のこと。
近年のグローバル化や第三次産業の拡大により、競合との差別化や提供価値向上の鍵として、「ヒト・モノ・カネ」の経営資源の中でも「ヒト」=人的資本の重要性が高まっています。
またアメリカでは、2020年8月から上場企業に対して「人的資本の情報開示」が義務づけられており、企業の将来的な成長や収益性を測る指標として人的資本が注目されています。
人的資本経営とは
人的資本経営とは、人材を「資本」として捉え、適切な投資を行うことで従業員の価値を最大限に引き出し、中長期的な企業経営・価値向上につなげる経営手法のことです。
従来の財務資料上では、人材に関連する項目は「人件費」、すなわち費用として捉えられていました。
しかし人的資本経営では、人材を費用ではなく投資と活用の対象である「資本」と見なし、経営戦略と連動させながら新たな価値創造へつなげていくことが求められます。
人的資本経営が求められている背景
ここでは近年の企業経営において人的資本の考え方が求められている背景を解説します。
人材や働き方の多様化
少子高齢化により労働人口が減少する中で、外国人労働者やシニア世代・子育て世代など、多様な人材が一つの会社で働くようになりました。
このような多様な属性の人たちをマネジメントするには、従来の雇用形態や社会的慣習を見直し、1人ひとりの実情に合わせた新たな働き方を提示する必要があります。
そこで、それぞれに適した働き方を整備することでより多くの人材に活躍してもらう人的資本経営の考え方が必要とされはじめています。
持続可能な社会への取り組みが重視されている
近年「ESG投資」や「SDGs」など、企業が持続可能な社会づくりに向けて取り組んでいるかどうかに注目が集まっていることも、人的資本経営が注目される背景の一つです。
ESG投資とは、投資家がEnvironment(環境)、Social(社会)、Governance(企業統治)の3つの観点から企業の持続可能性を評価し、投資するかどうかを決める方法のこと。
この3つの観点は、従来の財務情報には反映されない指標ですが、企業の長期的成長を見極めるために重要な項目として投資家を中心に開示要求が強まっています。
SDGsは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称で、SDGsの8つ目の目標では「働きがいも、持続的な経済成長も」が定義されており、ダイバーシティや人材育成などの推進も定義されています。
働き盛りの若い世代を中心に持続可能な社会に関心をよせている層が増えており、そのような人々に対して人的資本経営に取り組んでいることをアピールすることで、採用面でも有利に働きやすくなります。
デジタル課題の進化
デジタル化が急速に進む中で、人材に求められるデジタルスキルのレベルは以前よりも上がっています。
そのため、今いる人材に教育投資を行い、現在のビジネス環境にマッチしたスキルを伸ばすことで企業競争力の向上につなげていく必要があります。
このように人材に積極的な投資を実施する際の考え方として、人的資本経営が注目されています。
人材版伊藤レポート2.0の抑えておくべきポイント
「人材版伊藤レポート2.0」では、前版で紹介した「3つの視点」と「5つの共通要素」をまとめ、抑えるべき8つの重要ポイントについて、実践的な取り組み方法を紹介しています。
1:経営戦略と人材戦略を連動させるための取り組み
2:「As is – To be ギャップ」の定量把握のための取り組み
3:企業文化への定着のための取り組み
4:動的な人材ポートフォリオ計画の策定と運用
5:知・経験のダイバーシティ&インクルージョンのための取り組み
6:リスキル・学び直しのための取り組み
7:社員エンゲージメントを高めるための取り組み
8:時間や場所にとらわれない働き方を進めるための取り組み
このように、人材版伊藤レポート2.0は人的資本経営の重要性を説いており、人的資本経営という変革の実践を通して企業価値を向上させるよう日本企業に対して提言しています。
人材版伊藤レポートを基に企業が行うべきこと
ここでは人材版伊藤レポート2.0に掲載されている内容をもとに、企業が人的資本経営のためにどんな取り組みを行うべきかをピックアップして解説します。
経営戦略と人材戦略の連動に向けた取り組み
急速に変化が起こる経営環境の中で持続的に企業価値を高めるためには、経営戦略と連動する形で人材戦略を策定し、速やかに実行することが欠かせません。
そのような経営戦略と人材戦略を連動させるための取り組みとして、人材版伊藤レポート2.0では下記を行うよう提唱しています。
・CHRO(最高人事責任者)の設置
・全社的経営課題の抽出
・KPIの設定、背景・理由の説明
・人事と事業の両部門における役割分担の検証と人事部門の能力向上
As is/To beギャップの定量把握のための取り組み
人的資本における「As is/To beギャップ」は短期間では解消できないことも多いです。
そのため、CHROはKPI達成までの期間を設定し、ギャップを埋めるための継続的な取り組みが求められます。
またAs is/To beギャップを定量把握するための具体的な取り組みとして下記を挙げています。
・人事情報基盤の整理
・動的な人材ポートフォリオ計画を踏まえた目標や達成までの期間の設定
・定量把握する項目の一覧化
企業文化への定着に向けた取り組み
人材版伊藤レポート2.0では、持続的な企業価値向上につながる企業文化醸成の必要性を強く提唱しています。
企業として重視する行動や姿勢が社員に浸透するよう、社員の任用・昇格・報酬・表彰等の仕組みを検討すると良いでしょう。
また具体的な取り組みとして下記を挙げています。
・企業理念・企業の存在意義・企業文化の定義
・社員の具体的な行動や姿勢への紐付け
・CEO・CHROと社員の対話の場の設定
人的資本の情報開示
2022年8月、内閣府は企業の人的資本の開示に関する指針を正式に公表しました。
これによると、企業は資本市場や労働市場のステークホルダーが納得するストーリーを、人的資本の定量的なデータを基に説明できるよう準備する必要があります。
また開示が望ましい項目として、以下の7分野19項目を示しています。
人材版伊藤レポートを活用した企業例
ここでは人材版伊藤レポートの活用事例を解説します。
KDDI株式会社(電気通信事業)
KDDI株式会社では中期経営戦略で経営基盤強化の一つとして「KDDI版ジョブ型人事制度」を導入し、人的資本経営のためのさまざまな施策を行っています。
2020年から「KDDI新働き方宣言」を策定し、時間や場所に捉われない新しい働き方を推進しているほか、事業部門で20年以上の経験を持つ人材を人事部門トップへ登用、経営層や各事業部門と人事部門の対話を通じて経営戦略と人事戦略の連動を図っています。
また同社では今後部門ごとの人財ポートフォリオを策定し、今後の事業展開に応じて人材の採用・育成・配置の検討を行うとともに、全社員のポータブルスキルに関する情報開示を実施する予定です。
双日株式会社(卸売小売業)
双日株式会社では、人的資本経営を実現するための人材戦略を支える3本柱に「多様性を活かす」「挑戦を促す」「成長を実感できる」を掲げ、それぞれの柱に対しKPIを設定しています。
「多様性を活かす」のKPIとして2030年代に女性社員比率50%程度という数値を設定、達成するために海外トレーニー制度やMBAプログラムへの派遣制度など、キャリア意識を醸成する取り組みを行なっているようです。
また「挑戦」「成長実感」に関してもKPIを設け、社員意識調査によるアンケートを実施し、現状の定量把握や施策検討に活かしています。
まとめ
人材版伊藤レポートは、多様性の理解が求められる現代の企業経営に必要な事項が記載されており、同レポートで挙げられている指標は企業が中長期的な成長や価値向上を目指すにあたって決して無視できないものとなっています。
企業の更なる成長について考えていらっしゃる方は、ぜひ一度人材版伊藤レポートに目を通した上で施策を考えてみてはいかがでしょうか。